絵↓
漫画とモノクロ絵
CP要素あります すべて全年齢
よくここにいます
だからといって綾部も憧れていたかというと、そうでもない。むしろ自分の所属する委員会を決める時分になっても、綾部はその先輩のことを知らなかった。
ただ消去法で決めたに過ぎないのだ。
会計委員会のように徹夜をするのは嫌だ。
用具委員会のように重いものを持ちたくない。
保健委員会のように馴れ合うのは苦手だ。
体育委員会には平滝夜叉丸が入るというのでこちらから願い下げた。
火薬も生物も特に好きではない。
なら作法委員会しかないだろうと、よく見もせずに決めたのが綾部が二年生の春だった。
前の年に他の委員会に入って、ついぞ馴染むことが出来なかったので活動が少なさそうな委員会を選んだに過ぎなかったのだが。
「コラッお前!!こんなところで寝るんじゃない!」
湿った暗い穴の底によく通る声。
続いて小柄な影が機敏に降りてきて、まどろむ綾部の頭をはたく。
「いたっ」
「雨が降り始めてるのに何をしているんだお前は!冠水して溺れて死ぬぞ」
はきはきと歯切れよく喋る声にぼんやり耳を傾けていると、目の前の人物は「いたぞ!」と声を張り上げた。
「いたか?」
「んなとこにいやがったのか」
「おーい、こっちだ!」
次々と穴の縁から顔が出てくる。教師の声も聞こえてくるので、どうやら学園総出で探していたらしい。
綾部は思い出す。ここは裏山で、自分は穴の中にいるのだということを。
綾部が目をこすっているうちに、小柄な人物は懐から鉤のついた縄を出す。
「あの」
「投げるぞ」
その声は綾部ではなく穴の上に向けられていた。華奢な腕がきらりと光り樹上に鉤がかかる。
「あの、出るんです?」
「何言ってるんだお前は」
目の前の若苗色の制服を来た少年は怪訝そうな顔をすると、瞬く間に綾部の体を縄に括りつけた。
「小平太!文次郎!いいぞ」
言った途端、ぎゅんと引っ張られる綾部。勢い余って空中に投げ出され、回転した後ぬかるんだ地面にどすんと下ろされる。突然の痛みに驚く間もなく、大きな笑い声がとどろいた。
「わはは!一本釣り成功!」
見上げると泥だらけの四年生が2人立っていた。雨の中を這いまわりでもしたのか、片方は泥と枝葉とにまみれていて顔すらよく判別出来ず、もう片方はやや綺麗なものの、やはり泥だらけの顔をしていて誰とも分からなかった。しかし顔を知っていたとしても名前を覚えているような綾部ではない。
呆然と2人を見つめる綾部。
「やりすぎだ小平太…」
綾部のほうを見もせずに、やや目つきのするどい方が呆れ顔でつぶやいた。笑っている方は「気にするな!」と訳が分からないことを言ってまた笑った。
「大丈夫だったか?」
振り返るとさっきの小柄な少年が後ろに立っていた。色白の整った顔をしている。意志の強そうな太い眉はところどころ泥にまみれ、少し心配そうな黒い瞳が綾部を見つめている。
(誰だっけ、この人)
「小平太、あんなに力任せに釣り上げてこの二年坊が要らん怪我したらどうするつもりだったんだ」
「にゃははは!そんなこと言うんならお前がおぶって出てくれば良かったじゃないか!」
「こいつにそこまでの体力がねえことはお前も知ってるだろ」
「文次郎の言う通りだ小平太」
少年はため息をついて綾部に向き直る。
「怪我は無さそうだな」
安堵したような表情の少年。
──綺麗な顔。
白い顔に泥がついているのが美しく思えて、綾部は少し見とれた。
次の瞬間、
「この馬鹿者ッ!!!!」
バサバサと鳥が飛び立つ。何事かと教師や生徒が集まってきた。四年の2人はあーあと顔を覆った。
「何を考えているのだお前はっ!!嵐が来るという日に穴の中で寝るなんて!!死んでもいいと思ってるのか!!!」
その剣幕に綾部はぱくぱくと口を開けて言い訳することもできない。
「先生方も先輩も一年も皆おまえを探しに授業を中断してここや裏裏山まで行っていたのだぞ!忍者のたまごともあろう者がなんという体たらくだ!」
泥だらけの綾部の腕を掴んで立たせようとする少年。
「いたっ」
「?」
少年の動きが止まる。
「お前…足、怪我してるのか?」
「はあ」
綾部は座り込んだまま答えた。靴を脱がすと、左足首が赤く腫れている。
「おお」
「こりゃ痛え」
だから穴の中で寝ていたのか、と四年生2人が顔を見合わせる。おおかた、穴を掘っている途中で足を挫いて、出られなくなるうちに雨が降ってきたのだろう。
だからと言って寝てしまうとは。
「何故もっと早く言わない!」
その声に再びビクッとする綾部。
少年は眉間に皺を寄せたまま、少し悲しそうな顔をしたあと、おもむろにしゃがんで背中を見せた。
「おぶされ」
「え?」
「歩けないだろう」
「あ、はあ」
「もっとハキハキ喋れんのかおまえは」
文句をごちながらも背中を差し出すこの先輩のことを、綾部は少し怖いと思った。
たじろいでいると、少年が言う。
「おまえも私に体力がないことを心配してるのか?安心しろ、落としたりしないから」
何か勘違いされてしまった。しかしこの少年にはどこか有無を言わさぬ迫力があり、綾部は仕方なく彼におぶさった。
「よし、行くぞ」
綺麗に切りそろえられた黒髪を枕にして、丁寧に手入れされているはずなのに匂いがほとんどしないところが忍者らしいと思った。
(この人誰なんだろう)
ザアザアと雨は降り続いている。頼りない華奢な背中と、迷いのない少年の性格が、奇妙に調和して見えるのが不思議だった。
「アホハチロー。それ立花先輩だろ」
綾部に呆れ顔で言い放ったのは平滝夜叉丸だった。
ここは忍術学園の食堂である。
普段ほとんど一緒に食べることなどないのだが、綾部が足を怪我しているというので同室の滝夜叉丸が付き添いに来たのだった。そこでさらに同級の田村三木ヱ門とたまたま向かいになって、昨日の話になった。
「立花先輩?」
「ほんとに穴掘り以外興味ないんだなあお前」
三木ヱ門は箸で湯豆腐を崩しながら言った。口調は綾部を馬鹿にしている。
「厳しくて有名な先輩だよ。それで一緒にいた四年生というのが七松先輩と」
「もう1人は潮江先輩だろうな」
「なんでわかるの?」
あのなあ、と切り出した滝夜叉丸を見て綾部は「始まった」と思った。
「私を誰だと思っている?実技も教科も学年ナンバーワァンの平滝夜叉丸だぞ。学園内のことについても熟知しているのは当然だろう!それに七松先輩に関しては我が体育委員会の直属の先輩だ!」
「とか言ってるけど普通に生活してたら先輩の名前くらい覚えるけどな」
「なに?」
滝夜叉丸の目が鋭くなる。
「嫉妬か三木ヱ門?成績がわたしより劣るからといって妬むなど醜いぞ」
「なにを!」
席をガタッと立ち上がった三木ヱ門を見て綾部はこの場から立ち去りたくなる。
「わたしこそが忍術学園のアイドルであり火薬にかけてはゆくゆく学園ナンバーワンになる男っ!滝夜叉丸なんか道端の石ころにも劣るというのに嫉妬なんかするか!」
「なんだとお!?」
火花を散らし始めた二人を見て綾部は己の足の怪我を恨む。こんなケガしなければこの2人を会わさずにすんだものを───。
ギャアギャアと殴り合いの喧嘩をする二人を迷惑そうに一年生たちが見ている。恥ずかしい。
そう思っていると二人の背後にスッと影が忍び寄った。
「でさあ、立花先輩って何者なの?」
イライラしながら綾部が聞く。
食堂のおばちゃんに殴られた頭を抑えながら二人はぐちぐち話し始めた。
「わたしもよくは知らん。とても優秀なので下級生の尊敬の的という噂だ」
「ハッ!わたしは滝夜叉丸よりは詳しいぞ」
「なんだと?」
三木ヱ門の挑発に滝夜叉丸が反応する。綾部の視界の端で食堂のおばちゃんの目が光ったのが見えた。三木ヱ門と滝夜叉丸はコソコソ頭を抑える。
「三木ヱ門が詳しいってことは、火薬が上手い人なの?」
「そう!今のとこ四年生の中では一番上手いらしいぜ。だからといっていつかは越えてやるけどな」
フン、と目を伏せる三木ヱ門。金色の三白眼が野心家な性格を表している。
「で、立花先輩がどうかしたのか?喜八郎」
滝夜叉丸が煮豆を器用に箸で持ち上げながら尋ねた。
「いや、どういう人なのかなと思って」
「珍しいな。穴掘り以外に興味無いくせに」
滝夜叉丸が目を丸くする。二年間綾部と同室の彼は、綾部の性格を誰よりよく知っている。
昨日助けてもらったんだっけ?と三木ヱ門が言う。
「最初に喜八郎を見つけたのが立花先輩だったんだとさ」
「へー、さすがだな。でもどうして分かったんだろう?」
「“土の柔らかいところ”から探したんだって」
やわらかいところ?滝夜叉丸と三木ヱ門が首を傾げる。
「うん。土の質的に水を吸いやすいものとそうじゃないものがあるんだよねえ。柔らかい土は掘りやすいけど水を吸って崩れやすくなるから、そういう危ないところから探してたんだって。僕がいたら危ないから」
「ほー。で、お前は結局その危ないところにいたわけか」
「うん」
うんじゃない、と滝夜叉丸が小突く。危機感があるのだかないのだか、あんなことがあったにも関わらず滝夜叉丸から見た綾部は全くぽうっとしている。だが穴掘りのこととなると少し饒舌になるのは普段通りな証拠だろう。
「怖いね、あの先輩」
お茶を啜りながら綾部が目を伏せる。
「でも、見つけてくれたんだろ」
と三木ヱ門。
「うん」
「喜八郎、お礼は言ったのか?」
「え?ううん」
「それはいかん!!」
叫ぶ滝夜叉丸。その声の大きさに一年生たちが足早に食堂を立ち去る。
「我々は三年生のことはそんなに敬ってはいないが、四年生のことは尊敬している!礼を尽くさねばならん!お礼を言いに行くぞ!」
「ええ〜?いいよ別に…怖いし」
「良くないッ!!」
滝夜叉丸が綾部の襟首をつかむ。
ずるずる引きずられていく綾部を渋いまなざしで見送る三木ヱ門は、ついてくる気はさらさらないようだった。
ここは四年生の長屋の前。
「滝夜叉丸はここに来たことあるの」
「ない…」
元気よく食堂を出たわりに、滝夜叉丸は少し緊張しているようだった。
二人はごくりと唾を呑み込む。
「滝夜叉丸は関係ないんだから来なくてよかったのに」
「なにを言うか!わたしが来なかったらお前は何も行動しなかったろうが!足も怪我してるくせに!」
二人が部屋の前でヒソヒソと攻防していると、廊下の角から授業が終わったらしい四年生がぞろぞろと出てきた。
(わっ)
慌てて滝夜叉丸と綾部は端に寄る。
顔も知らぬ四年生たちは二人を気にかけることもなく笑いながら通り過ぎて行った。
綾部はぽそりとつぶやく。
「帰りたい…」
すると突然、
「何やってるんだ、お前たち?」
という声が聞こえた。
驚いて二人が顔を上げると、そこには知っている四年生───潮江先輩と立花先輩がいた。
(泥だらけじゃない)
綾部が真っ先に抱いたのはそんな感想だった。当たり前だ。それと同時に、泥だらけの方が似合っていた、とも思った。
何か言おうか考えていると、滝夜叉丸が綾部を制して前に進み出た。
「あの、潮江先輩に立花先輩。先日は喜八郎がお世話になりました。ケガの手当までしていただいて、おかげさまで喜八郎は死なずにすみました。今日はそのお礼を言わせていただきたく参ったのです」
流暢に喋る滝夜叉丸に綾部はぎょっとする。こういうところは──認めたくないが本当に──滝夜叉丸には敵わないと綾部が思う数少ない部分なのである。
「おお、元気になったか」
潮江先輩が快活に言う。若いわりには何十年も生きてるような貫禄のある顔なのだな、と綾部は思った。そしてその雰囲気は、隣の立花先輩にも受け継がれている。
「ああ、綾部か。足の腫れは引いたか?」
立花先輩は少し笑って、「座って話そう」と部屋の戸を開けた。
「自己紹介がまだだったな。私の名前は立花仙蔵という」
「潮江文次郎だ」
必要最低限のものが綺麗に整頓された部屋で、二人と二人は向かい合っている。
「平滝夜叉丸です」
「…綾部喜八郎」
ですをつけろ、と滝夜叉丸が綾部を肘でつつく。
「平と綾部は何委員会だ?」
文次郎が問うと、滝夜叉丸はぱあっと顔を輝かせた。
「はっ、わたしは委員会の花形、体育委員会です」
元気に滝夜叉丸が答えるので、綾部もしぶしぶ記憶の彼方から所属委員会の名前を引っ張り出す。
「僕は作法委員です」
「なに?」
仙蔵の眉がピクリと動いた。
「作法委員だと?わたしと同じ委員会ではないか!」
「え…そうなんです?」
綾部は目をぱちくりさせた。作法委員なんて特別目立つ委員会でもないのに、この優秀な先輩が入っているのが意外だったのだ。
仙蔵は呆気に取られている。
「でもお前と会うのは昨日が初めてだぞ。お前…委員会に出たことないのか?」
「はあ」
綾部のはっきりしない返答を見かねて、すかさず滝夜叉丸が取り繕う。
「先輩、こいつ穴掘りが大好きなんです。いつもいつも穴を掘ってるから、その、委員会のことも失念していたのではないかと……」
「へえ」
潮江先輩は眉を下げて呆れた表情をしている。立花先輩は──笑っていない。
綾部は、ヤバい、と身をすくめた。
一年生の頃も言われた。「委員会をサボって何をやっているのだ」と。二年生になったなら尚更きつく言われるだろう。ましてや、こんな厳しそうな先輩なら、1時間は説教されるかもしれない。実際、昨日も怒られた。
目を閉じたくなる綾部。
すると仙蔵のおだやかな声が響いた。
「ほう、仕掛け罠の鍛錬をしていたのか。熱心でよいではないか」
綾部は顔を上げる。
立花先輩の顔を見ると、彼は薄く微笑んでいた。
「私の所属する委員会は、言っては悪いがほぼお遊びだ。だから別に出なくても何とも思わん。もっとも、わたしが委員長になったあかつきには別だがな」
だな、と文次郎と仙蔵は顔を見合わせて笑った。本来なら──怒られなくて済んだと喜ぶべき場面なのだが、綾部は別の感情を抱く。
(なんだろう、このモヤモヤした気持ち)
「…昨日はあんなに怒ってたのに」
思わず口から零れてしまった言葉に、綾部自身ハッとする。滝夜叉丸が小さく「馬鹿ッ」と呟いたのが聞こえた。
部屋の空気が一変する。
突如仙蔵の目が厳しくなる。
「わたしがなぜ怒ったか分かってないのか?」
その細い目に、華奢な体格にあるまじき威圧感を感じて綾部は固まる。不必要なことを言うのは悪い癖だ。ましてこんな恐ろしい人に。しかし後悔してももう遅い。滝夜叉丸は冷や汗をかいてかしこまっている。
綾部は言葉を絞り出す。
「分かり、ません」
「分からないなら教えてやろうか」
仙蔵が綾部に顔を近づける。獲物を捉えた鷹のように迫力のあるまなざし。切れ長の黒い瞳。ひどく冷えた感覚の背中。
こんなに心臓がどきどきしているのに、周りから見た自分は今も普段と同じ無表情なのだろうか、と綾部は思った。
「それはな、」
食われる。
「お前を心配していたからだよ」
「え、」
綾部は目をまたたかせる。
あっけらかんと言った仙蔵に、文次郎は「あんまり年下を驚かすなよ」と呆れた。
「お前ただでさえ怖がられてんだから」
「お前ほどではないぞ」
からりと笑うと、仙蔵はにじりよって、綾部の手を取った。
「お、綺麗なタコだ。好きこそ物の上手なれというが、お前の穴掘りは天からの賜だな」
そう言って掌を撫でる仙蔵。その表情は凪いだ海のように穏やかで何も気にしていないようだ。
あれから考えていたんだが、と彼は続ける。
「お前が溺れると分かっても穴を登る気にならなかったのは、自分の掘った穴が怪我をしてる状態で簡単に登れる代物ではないと分かっていたからではないか?それくらい見事な返しがついてたぞ」
そうなのか、と潮江先輩が感心する。まあ寝るのは図太すぎるけどなあ、と仙蔵は苦笑する。
「そんなところまで──見てたんですか」
「うん」
心底意外だというふうな綾部に、それこそ意外だという顔をする仙蔵。
(お前を心配していたからだよ)
綾部は考える。そもそもなぜ昨日はあんなに怒られたのだっけ。怒りの剣幕に気を取られ、その意味を考えることを忘れていた。
(僕のことを心配してくれていたから?)
委員会に出たこともない後輩の僕を。
目の前の先輩は今日は穏やかに話をしてくれている。穴掘りが好きな自分を認めた上で、手のひらを撫ぜてくれている。綾部は胸の内に湧き上がってくるものを感じる。
「無事で良かったよ」
仙蔵はふ、と笑った。
それを見て、綾部は初めて立花仙蔵という名前を記憶に刻みつけた。
滝夜叉丸は綾部の顔をそろりと覗き込む。
綾部はいつもの無表情で固まっているように見えた。滝夜叉丸は小声で急かす。
「喜八郎、お礼っ」
「立花先輩」
ふいに綾部の周りに風が吹いたように周りは錯覚した。
何か言いかけて綾部は黙る。
そして、
「おせわになりました」
と一言呟いた。
綾部と滝夜叉丸の謝礼はそれで終わった。帰り道滝夜叉丸に、「おまえ、ありがとうって言えないんだなあ」と呆れられたが、綾部は気にしなかった。
廊下の奥を見つめて、考える。
昨日までは立花先輩を怖いと思っていた。でも今日、その気持ちは薄れた。おだやかな顔を見て、なんというか、拍子抜けしたのだ。そして地に足がついたような感覚を覚えた。心配してたからだよ。心配して。
この気持ちは、何か爆発するような、何か生まれるような。どこか切ないような、手を合わせたくなるような。
(好きです、って)
風に目を閉じる綾部。
(言いそうだった)
翌日。
作法委員会はザワついていた。
いままで一回も出席したことのない二年生が出ていたからというだけではない。
「…近いな」
立花仙蔵は腕にべったりとくっつく頭を見下ろした。
固まったように無表情の綾部に戸惑う周りの作法委員。それでも綾部は仙蔵の腕を離さない。
「おい、離れんか。暑い」
ぎゅっ…。
「綾部」
ぎゅっ…。
「……」
こりゃ聞かんな、と悟る仙蔵。司会をしている委員長に向かって苦笑いする。
「構わず続けてください」
一昨日、昨日としか会っていないのに何故懐かれたのか、その理由が仙蔵には分からない。しかし綾部が委員会に出るのは良いことだ、と仙蔵は無理に納得する。初夏のぬるい風がさざ波のように室内を満たしては去る。
何か話しかけてやろうかと考えて、「そうだ」と膝を打つ仙蔵。
「綾部」
名を呼ばれて綾部が顔を上げた。
仙蔵は綾部の耳に顔を近づけると、小声で告げた。
「お前のこと、今日から喜八郎って呼ぶよ」
そしてフッと微笑むと、仙蔵はきょとんとしている綾部をそのままに、講義に聞き入った。
Fin