「聞いてんのか綾部喜八郎ッ」
三度無視したところで相手が木材を振りかぶる気配がしたので、聞こえてますよ食満先輩と適当に返事をした。穴の底は声が篭もる。
忍術学園は厳しい縦割り社会であり、上級生に話しかけられたらどんなに苦手な相手でも返事をしなければいけない。気配と声で上級生の誰から話しかけられたのアタリをつけていた綾部は、土を掘る手を止めて上を見上げた。
振り仰ぐと丸い青空を背負った精悍な男がひょっこり縁から顔を出している。
影になって見えない口元が、委員会はどうしたよ委員会はとぞんざいに言った。
「休憩中です」
「それはサボるっつうんだ。委員会サボって穴掘りかこの土塊小僧。お前の掘りやがった穴のせいで下級生の怪我が絶えんのだぞ!この穴埋めるのだって俺ら用具委員会が汗水垂らして」
「良い鍛錬になるでしょお」
「その間延びした喋り方やめろ!」
口調に矛先を向けられ綾部が押し黙る。生来この間隔の延びが綾部の生きる速度に丁度良いというだけで、本人にしてみればからかっているつもりはないのだが。
太陽が隠れ、穴の上のコントラストが少し弱くなる。浮き上がった頭上の男の輪郭は、やはりすっきりとしていて、好戦的で、二級上の食満留三郎のものに違いなかった。
「上がってこい」と食満が命令する。
このままだと綾部ごと木材で生き埋めにされそうな迫力だ。しかし朝早くから掘り進めた穴は深く、すぐには登れそうもない。そう告げると、食満は「お前それでも忍者のたまごか」と呆れて眉を下げた。
綾部は湿った泥だらけの顔を傾げる。
「あまり自覚はないですが」
「もういい」
こめかみに青筋を浮かべた食満は、綾部に反省の色が見られないと判断すると、分かった、と吐き捨てて穴の縁に仁王立ちになった。
「後輩の責任はその直属の先輩にあるというわけだな。仙蔵に言って奴から直接叱ってもらうぜ」
突如野次馬な響きをもって放たれた言葉に、それまで乏しかった綾部の表情がかすかに色を帯びた。それを満足げに一瞥すると、食満は風のように穴の縁から姿を消した。
その機敏な動きを見て、彼もあの人と同じ学年だったと綾部は今更ながら実感する。
立花仙蔵。
綾部の属する作法委員会の委員長で、学園一冷静な男というのがその男の札書きである。成績優秀、才徳兼備、厳しい授業を生き残った精鋭揃いの六年生の中でも、実技教科ともに優れた生徒といえば真っ先に名前が上がるであろう先輩だ。火薬調合の腕は確かであり、女装も上手ければ演技も上手い。下級生には親身だが優しさで身を滅ぼすタイプでもなく、優秀だが頭が固いわけでもないという、肩の力の抜けた上級生というのがこの仙蔵という男だった。
「で、お前は何を要求するんだ留三郎」
ここは六年生長屋の一室である。
若苗色の忍装束の仙蔵が食満と向かい合って正座している。真ん中に綾部を挟んで、ただならぬ様相だ。
「仙蔵。お前の後輩がいかに穴掘りが大好きかはわかった。だがこうまで大量に掘られると後輩たちがおちおち駆け競べも出来ん。綾部の所属する作法委員会委員長として、下級生長屋の前に掘られた落とし穴はすべてお前の手で埋めろ!」
ばん、と食満が床を叩く。室内の床板が振動した。
「留三郎〜、それはちょっと酷だよ。仙蔵の手にマメが出来たらどうするの」
2人の様子を見て取り繕うように口を挟んだのは、保健委員長であり食満の同室の善法寺伊作だった。
「伊作!大体な、一番こいつの被害を被ってるのはお前なんだぞ。毎度毎度面白いくらい罠にかかりやがって、少しは怒れ!」
「確かに、掘りかけの穴にも善法寺先輩がかかってくれるせいで蛸壺がおじゃんになることはよくあります」
「お前はその減らず口を減らせ!」
指をさされた綾部が仙蔵の背後にそそくさと隠れる。目元も髪も鋭利な顔立ちの食満は怒ると迫力が増し怖い。仙蔵はというと、体格も華奢だがどこ吹く風で微動だにせず、まあ楽にしていけと足を崩した。
「つまり留三郎が憂えてるのは下級生の怪我か。確かに四年生の喜八郎が張った罠に三年生以下の者がかかってしまうのは本人としても不本意だろう。下級生長屋の前の蛸壺はこちらで埋めよう」
「…せっかく掘ったのに」
了解したな、と低い声が降ってきたのでハイと返事をした。
食満はひとつ頷くと、足を崩さないまま言葉を次いだ。
「それに加えて、だ。保健委員会の仕事を手伝うことも要求する。ただでさえ文次郎の馬鹿野郎が予算を回さないせいで薬が足りてねえってのに、こいつのおかげで人手まで足りなくなってやがる。伊作が言わねえから俺が言うが、綾部の物好きは人に迷惑をかけすぎだ!見過ごしにしてる仙蔵も同罪だぞ。落とし前をつけてくれ」
伊作がきょとんとして食満を見た。自分の名前が出るとは思ってなかったのだろう。
綾部は伊作を盗み見る。なるほどこれか、食満が善法寺伊作を連れてきた理由は。善法寺伊作というのはもはや天性とも言える不運の持ち主で、行く先々で不幸な目に遭う体質なのだ。その伝染病のごとき不運は彼が委員長を務める保健委員会の面々にも着々と移っており、転んだり馬糞を踏んだり穴に落ちたりと保健委員会ではとにかく生傷が絶えない。伊作の同室である食満は、憎まれ口を叩きながらもそんな同級の身を常日頃から心配して、ついに今日元凶である綾部を発見したことにより重い腰を上げて仙蔵に直談判しに来たというところなのだろう。
子供さながらに告げ口すると見せかけて、真剣に怒っているのだ。食満は、きっと。優しいゆえに何も言わない伊作のために。
仙蔵は一言、
「すまないな」
と謝った。
(どうして謝るのか)
綾部にしてみれば伊作の方が不自然で不可解で、その他の保健委員もなぜかよく罠にかかってくれる哀れな集団だ。陥れたいわけじゃない。ただ穴を掘るのが好きだから掘っているのに、何故そのことについて責められ、先輩が謝らなければならないのか。
(それは僕が謝らないから)
綾部は自分のタコだらけの手のひらを眺めた。理屈と折り合わない主張がぼんやりと浮かんでは消え、生の言葉は吐き出されぬまま綾部の中に置き去りになった。
「保健委員会の仕事はできる限り手伝おう。怪我をした者への謝罪も含めてな」
「さすがは仙蔵だ。潔いぞ」
食満と伊作が安堵した表情を浮かべ、顔を見合わせる。
彼らが去ったら自分は怒られるだろう、と綾部が考えていたとき、凛と真夏の風鈴のように仙蔵の声が響いた。
「ただし四年以上の面倒は見ない」
食満は片膝を立てて身を乗り出した。
「なにい」
「上級生たるもの喜八郎ごときの罠を看破できずにどうする。仮に落ちて怪我したとして、下手人を責め立てるのは筋違いというもの。戦場で言い訳など聞いてもらえると思うのか。忍者としての恥を晒しているようなものだぞ。ここはただの学び舎ではない、」
忍者の学び舎なのだから、と仙蔵は次いだ。
「だから保健委員会の仕事が増えたことについては謝るが、伊作、お前の怪我については同情しない」
唖然として食満と伊作が顔を合わせる。
しばしの静寂の後、口を開いたのは伊作だった。眉を下げて苦笑している。
「まあ仙蔵の言う通りだよ。僕の不運は僕の責任だしさ。委員会の仕事手伝ってくれるのはありがたいし、後輩の怪我も減るならそれでいいじゃない。ねえ留三郎」
食満は憮然としている。目敏くその表情を見分けた仙蔵がピシャリと叫んだ。
「なんだ、まだ文句があるのか留三郎。下級生長屋の分は穴も埋めるし怪我の手当てもすると言っているんだぞ。お前の委員会は下級生しかいないではないか」
「いーや、仙蔵。まだ粘らせてくれ。俺はまだ綾部の口から謝罪を聞いてねえ」
「喜八郎の口から?…」
仙蔵の顔にやや不安の色が浮かんだ。
六年生三人の視線が綾部に注がれる。愛用の踏鋤をがっちり抱えた綾部は、仙蔵の背後できょろりと全体を見渡した。
「お前から何か言いたいことはあるか?」
少し小さな声で仙蔵が尋ねる。
「言いたいことはありますが謝罪はありません」
俯いて素っ気なく答えた綾部にまたも食満の額に青筋が浮かぶ。まあまあと宥める伊作の声。
「言ってごらん」
「イヤです」
ギャアギャアと背後が騒がしくなる。仙蔵はじっと綾部を見つめた後、溜め息をついて後ろを振り返った。
「…だ、そうだ」
揉み合いになっていた食満と伊作がキッと綾部を睨みつける。正確には食満のみだったが。
「この野郎〜ッ」
「喜八郎からは私が話を聞いておく。だからこの場は引いてくれないか。話したくないんだとさ」
「甘すぎるんじゃねえか仙蔵。そいつは作法委員会の四年なんだろうが!年上に対する礼儀作法はどうなってんだよ!いつもいつものらりくらり躱しやがって、そんな奴二、三発ぶん殴って裏山にでも干してやりゃ…」
「留三郎!やめたほうがいいって」
パァン!と音高く床板が叩かれた。ピッ、と伊作と食満が抱き合う。
「私には私のやり方がある」
凄みのこもった声音で、仙蔵は一言一句区切るようにゆっくり云った。懐に入れた片手を見て、二人はずるずると膝から崩れ落ちる。分かったから焙烙火矢はやめてよう、と伊作が叫び、気力を削がれた食満が呆然としながら伊作に引きずられ───部屋を退場した。
室内は途端に静かになった。
怒ると怖い仙蔵というのを、食満は不運にも伊作を巻き込んで証明してしまったのである。
綾部はしばし硬直していたが、やがて目の前の先輩の背中を見るのに疲れたのか、そろそろと仙蔵のうなじあたりを覗き込んだ。
「立花先輩?」
仙蔵は答えない。綾部がその右の手を取る。
何も言わず手のひらを上向かせると、うっそりと蒼白いはずのそこが赤くなっていた。
「痛くなかったです?」
「ありがとうとか済みませんとか言えんのかおまえは」
再度深い溜め息をついて仙蔵が無造作に髪に指を差し入れた。指通りの良さそうな髪が流水のごとく肩に落ち、首がゆっくりと綾部の方へ振り返る。
墨を引いたように切れ長の、黒い瞳。
視線を合わせて綾部は無感動に、
「かわいそうな床板」
と云った。
「馬鹿者」
逆の手で綾部の手を取ると仙蔵も同じように裏返す。
綾部の手の大きさはさほど仙蔵と変わらない。しかしその手のひらにはびっしりとタコが出来ている。
「留三郎はこれを知らないから責めるんだよ。罠の腕も一朝一夕で磨けるものではないと反論すればいいのにお前がしないから」
心苦しい結果になった、という割に仙蔵はあっけらかんとしている。
「だってあの人聞く耳持たないでしょう」
「そうだなあ…」
ごろん、と仙蔵が後ろに伸びる。
そのままなだれて綾部の正座の上に頭を置いて、「なんにせよお前も反省だ」と呟いた。
そのまま寝入ってしまいそうな雰囲気に、綾部は慌てて足を崩そうと試みるが時すでに遅く、「先輩」と抗議するも仙蔵は綾部の上から微動だにしなくなった。
「先輩」
「立花仙蔵だ」
「立花仙蔵先輩」
「なんだ綾部喜八郎」
「立花先輩、穴埋めるんじゃなかったんです?」
「なんだ綾部、埋めたいのか」
「作法委員会委員長、そういうことではなく」
「ならば私が起きたらで良かろう、作法委員会に3年所属している綾部喜八郎」
「…仙蔵さま」
「きー坊、もう眠い」
──どこまでお茶目なつもりだ。
眠い時の先輩は水のように自由だ。だから敵わない。
それに、と仙蔵が小さく言葉を次ぐ。
「すぐに埋めても喜八郎が納得いかんのでは意味ないよ」
ここにいて少し考えなさい、と消えゆく語尾を残して、仙蔵はそれきり寝てしまった。
(これは──)
正座。作法委員会として正座に慣れているとはいえ、足を崩すことはもうあと何刻かは出来ないだろう。
(罰のつもりなのかな)
綾部は体を揺らしてみる。起きない。
これではまた穴掘りに行くこともできなさそうで。仕方なく影の伸び始めた外に目を向けると、遠くで下級生たちの笑い声が聞こえた。それに混じり、怒るような聞き覚えのある声も。
結局、業を煮やした食満が伊作やら用具委員会の後輩をともない穴埋め作業に取り掛かっているのかもしれなかった。
「………」
先輩の言う通り、反省する時なのだろう。
綾部は深い溜め息をつき、目を細めて下を見た。
寝息を立てる、学園一優秀な男。
この人の下にいる限り、外の批判からは必ず守ってもらえるかわりに、この人の定めた罰は受けなければならない。常にそうだ。これがこの母鳥のような人が治める作法委員会の法なのだ。
それは綾部にとって、決して嫌なものではなかった。
少し分厚い手のひらで先輩の黒髪を梳くと、音もなく指の間からこぼれ落ちた。
立花先輩、と呼んでみる。
「お慕いしております」
口の中だけで呟く。
心の中の仙蔵が、ありがとうとかすみませんとか言えんのかおまえは、と苦笑した。
Fin