この世界に長くいると、“フツー”とは違う習慣のようなものが出来てくる。それはごく当たり前。
息をするように、人を疑う。
パンを食べるように、人を殺す。
それは仲間であっても適用される原則で、むしろ仲間であるからこそ推奨さるべきことである。獅子身中の虫、という言葉の意味はボンゴレ本部が二度のクーデターを通して嫌というほど知っているだろう。今いる生暖かい温度に永く留まっていようとする者はこの世界には不要で、暗殺者たるもの常に虚心で日々革命の前日のように過ごしておくことが望ましかった。(そう考えると俺の兄なんかは周りに言われたことをよく咀嚼もせずにすぐ鵜呑みにしてるような奴だった。あいつは本当に馬鹿だった。)
疑い続けて、それでも殺せない相手であって初めて信頼に足るのだ。それは俺にとっては別に入隊してから知ったことじゃない。鳥籠のような城にいた頃から、きっともしかしたら遡ってみれば生まれたときから、さも自然なことのように心の中にあったことだ。
八年前。
「ボスって本当に強いのー、鮫」
ああ、真昼間の陽光が最高にきもちいい、と考えながら何の前振りもなくそんなことを聞いてみる。この城がヴァリアーの拠点になってから取り寄せた俗世臭いベッドではなく、改築される前からあるほぼ骨董品に近いアンティーク調のベッドがふと懐かしい匂いで過去を思い出させる。それが置かれてるのは俺の部屋とこの談話室だけ。これの上でゴロゴロしてると、つい最近までいた城を思い出してなんとなく落ち着く。絶妙な沈み具合が必ず眠りを誘ってくるため任務を控えている時は意図的に避けているのだけど今日は午後からなので余裕。最高だ。
向かいのソファでカタカタと忙しなくキーを叩いていた男が顔をあげる。さっぱり梳かれた銀髪は今日も寝癖ひとつなく天に向かって伸び、朝日を浴びて控えめに反射している。飾り気のない銀のフレーム眼鏡を通して寄越された鋭い目線は、今さら何言ってんだとでも言いたげだ。
「今さら何言ってやがんだテメーは」
予想とまったく違わず怪訝な顔をしてくれたスクアーロは俺と違ってデスクワーク中。光が眩しいらしく、チラリと窓に目を向け、真横のカーテンを雑に閉めると再度俺の方に向き直った。うん、逆光の方がいい感じ。これで剣が装着されてて舞台が夜なら完璧なのに。
「剣の手入れしなくていーの」
俺の言葉には暗にこれから起こす大事件への示唆が含まれている。そう問うと、ピクリとスクアーロの眉が動いた。超分かりやすいなーこいつ。
面白いので少し発破をかけてみる。
「ま、ボンゴレのためにしてやる残り少ない書類作成だもんねー。怪しまれないためにもしっかりきっちりいつも通りこなさなくちゃね」
「ゔお゛ぉいクソガキ、ガキで書類回されねえからってあんまりよく喋ってくれてんじゃねぇぞ。うっかり剣が滑ってその舌鯰切りにしちまうかもしんねーからな」
「うーわ生意気。やってみれば?先に手出してボスにぶん殴られんのはそっちだけど」
「!てめー…」
ガタッと音を立てて立ち上がったスクアーロはそれでも拳を振り下ろしたりはしないで、わなわなと震えている。ボスが絡んだ時のこいつの釣りやすさにはいつも驚かされるね。いつもったってまだほんの数ヶ月しか一緒にいないけどさ。だからこうしてわざわざ同じ部屋でくつろいで親睦を深めようとしてやってるのにこの愚か者ときたらもー。こんな単純なのが数日後のクーデターで、足並み揃えて迅速に集団行動出来るわけえ?
ため息ついでに「そんなボスのこと好きなの?」と尋ねてみる。スクアーロが怒るのも黙るのも、全部ボスのことを思えばこそだ。こんな血の気の多いやつが怒りを押し込めるほどの器なら、すでに相当のものだ。男同士の誓いとか、よく分からないけど。
俺の予想が当たっていたら、スクアーロは次に当たり前だろうが、と若干困惑しながら吐き捨てるように言う。
はたして。
「当たり前だろうが」
俺の予想はまたも的中した。けど、その目と表情が予想に反してあまりに真剣だったもので、ちょっと面食らう。任務の時でさえ人を侮ったような顔をする傲慢極まりないこいつが、ボスのことを話す時だけいやに鋭く真剣になるのを、知ったのはこの時が初めてだった。
スクアーロは言った。
「ガキにもわかる言葉で言ったら『好き』になんだろうなあ。だがガキ、覚えとけ。お前もここに生きて残る限り、必ず近いうちに理解することになる。『好き』なんぞじゃねえ、身の震え上がるような畏怖と、畏敬と、燃え上がるような力の存在をよ───」
スクアーロは口の端を少しだけ持ち上げて笑った。自分に満足したかのように。
くるりと方向転換すると、いつもの大股で振り返ることなく部屋から出ていく。なびく左の袖が妙に生々しくて、少しの間あっけにとられた。
バタンと音を立てて閉められた扉。
ふつふつと湧いてくるもどかしい怒りのような感情。
(──マウント取られた?)
何。
何だこいつ。
自分だけ分かったような口ききやがって。俺だって自分より弱くて頼りない人間にクーデターなんてでかい仕事で命は預けられないからおまえに聞いたんだっつーの。そりゃ強いかもしれないし触ったら祟られそうなくらい怖い顔してるよ?ボス。でも実力を知るには期間が短すぎるじゃん。
苛立ちと裏腹に興味が湧いてきた。そこまで忠誠を尽くされるボスにはどのくらいの力があるのだろう?果たして俺にも分かる魅力なのだろうか。
何としても確かめる必要がある。自分のために。
そう思っているとある名案が浮かんだ。
「ボス」
ギイとわざと音を立てて部屋に入る。ヴァリアーの中でもこの年で入隊する人間は前代未聞らしく(そりゃそうだろう)、なんだかんだで多少の省略は許されている。たとえば、ノックとか。
「何だ」
目線は眼下の資料に向けられたままだろう、空気はとてつもなくピリついているが相手が俺だと分かった途端に、少しだけ凪いだ。なんとなく、甘やかされてる自覚はある。こみ上げてくる興奮を押し殺す息苦しさを楽しみながら対象を観察した。
部屋の主が返す言葉に隙はない。
いつも通りどっしり構えて威厳のあるボスが、いつも通りそこにいるだけ。でも王子に言わせてみれば『ならば隙を作るまで』だ。
「寝れなくて…ボスのベッドで寝てもいーい?」
あ、やっとこっち見た。
資料をめくる長い指先が一瞬止まり、澄ました表情が呆れのような色を浮かべた。
「好きにしろ」
簡単な会話。これがボスと交わす最後の言葉かもしれないってのに。
「ありがと」
いくら気が張ってても睡眠をとらないと次に、またその次にと響く。その先に何があるか俺以上に知っているボスが眠らないわけがないことを俺は知っていた。そこを狙う。
真夜中から明け方にかけての時間にボスが多少疲れてベッドに入る。俺は眠ったふりをしながら仕掛けておいたワイヤーを手繰り、抱きつくふりをしてボスの首に絡みつける。それは確実なパターンだけど仮にそれができなかったとしても、手繰るだけでどんな方向からも首が取れるようにはしておく。きっとこれは俺にしかできない計画だろうと思うと笑いたくなるけど、それはダイヴした先のふかふかのシーツで制御。
ゆったりとした気持ちで目を閉じる。
ボスを殺すんだ。
薄暗い真っ黒の世界の中で、ボスの体に咲く紅い華だけがいやに鮮やかだ。
フッと明かりが消える感覚とともに心做しか重い足取りが瞼の裏に映る映像と重なる。
ベッドの軋む音を肌で感じながら五感を研ぎ澄ませ、殺気のないことから計画の知られていないことを確認。頭のうしろに息があたるからこちらを向いて横になってくれているようだ。やりやすいね。すうと大きく自然に息を吸って向かい合うように寝返りをうつ。
手がボスの脇腹のあたりに触れ、感覚だけをセンサーにしていた脳にとてつもなく強力な『実体』というイメージが付け足される。これはもはや確殺を意味していると言ってもいい。
呼吸のリズム、脈、温度のすべてを感じて、細い寝息を額に受けながら、寝息が一定のリズムになるのを待つ。
何時間経っただろうか。
そしてついにこの時は来た。手のひらに汗など滲まない。当たり前のこと。疑い、殺す。生まれたときから身につけていたもはや習慣で、ボスよりずっと前から側にあったもの。実力がないのなら側によることさえ許されない、永い血の境界線。なあ、ボス。あんたにこれを超えるだけの器量はあるか?なかったらやっぱり従えない。王子はどっか他のとこへ行くよ。冀くはあんたが選ばれた人でありますように。
ワイヤーの感触を確認して、ボスの首にかける。濡れたようにぼんやり黒ずむ闇の世界で紅い記憶を浮かべながら、俺は迷わずワイヤーを手繰る手を動かした。
…のに。
世界は依然として黒一色のまま形を潜めている。何の音もない。最初に呆然、次にどうして、との焦りから瞼を開けるのより先に、地の底から弾けるような笑い声が響いた。
「ぶはーっはっは!!!」
魔王が笑っている。
ヤバい、と思うのより早く、というかもう何を考えるのも動くのも俺より早く、気づいた時にはボスの腕が俺の肩を押さえつけ脚で腕を踏み覆うように完璧に縫い止めていた。
「ベルフェゴール」
俺は何と言い訳しようか考えてショートしそうな頭をフル回転させてる。いつもは上手く回る頭も今日に限っては働かない。確かに殺せるはずだったんだ。なのになんで、という思いばかりが頭に浮かんで、全然集中できない。
目と目だけを合わせるだけの無言の探り合いが始まった。でも多分見透かされてる。爛々と輝く紅い瞳にじりじりと、時間をかけて焼かれてるみたいだ。その目は血みたいで、その口元は愉しげに歪められ、懐からカチャ、と聞き覚えのある音がした時は全身、焼け焦げるような思いだった。
「俺を殺そうとしやがったのか」
思考を遮る冷たい感触。知り尽くしているのが一瞬で分かる正確な位置。心臓に突きつけられた銃口は、『返答によっては赦す』ではなく、『有無を言わさず殺す』ということを語るのに十分すぎるほど十分だった。
もう何を言うのも無駄。常なら絶望が常人を蝕むのは「当たり前」の状況で、俺はまったく別の感情を抱いた。
「ボス」
肩が震え出す。いや、心臓が揺れててくすぐったくて、肩まで揺らされてる感じだ。もうどうしようもないほどに狂おしく、興奮。悦びと、それから恐怖。畏怖、と言った方が近いのかもしれない。
「ボス」
その名を冠する魔王が、目を眇める。歯列がガタガタ揺れて噛み合わないし気持ち的には確実に恐怖一色、なのに気が遠くなるほど、嬉しい。嬉しい。嬉しい。
「ボス」
気づいていた。俺の計画に。
おそらくは入った時から。
この人なら、殺そうとしても死なない。
この人なら、全てを受け入れて消え入りそうになったりはしない。
この人なら、俺を愛してくれる。
「よろしく」
何が「よろしく」、なのか、これから「よろしく」なのか向けられた銃のトリガーを引いてくれという「よろしく」なのか俺にも分からなかった。でもボスは俺の意思に関わらず自分の意思を貫いてくれるだろうから、さして問題はない。
このまま永遠に見ることが叶わなくなるかもしれない世界でさえもどうでもいいと感じ、目を閉じる。
塗り込めたような闇の中で瞬く真っ赤な双眸が血の色と重なったのが、この世の見納めだった。
パン!
「おい」
…
「ベル」
…え、
「起きろ」
ちょっと、
「何死んだような面してやがる」
ぱち。
目を開けるとそこは未だ闇の世界で、さっきとまったく変わらないボスの顔があった。
「ちょっとボス、何で……」
胸に手を当てると、すべすべした感触。間違ってもヌルヌルはしてない。ってことは血が出てなくて、それはボスが銃を撃ってないか弾を装填し忘れたかということで(これは絶対にない)、つまり、
「空砲……?」
カシャン。
愛用の銃のスライドを滑らかに上下させて、何事も無かったかのように目を細める我らがボス。
「誰が殺すっつった」
「……………………なんだ、ぁ」
「そんなに殺されたかったのか?」
「ん〜…」
あの時、確かに殺される気がしたんだけどな。嬉しいような惜しいような感情に振り回されて弄ばれて、喃語みたいにもたついた曖昧な返答をしていると、「ベル」と再び名前を呼ばれた。
「お前はさっき心臓を貫かれて死んだ」
「…」
「生き返ったからには、俺のために動き、俺のためだけに殺せ」
「…」
「お前に俺は殺せねぇよ」
ボスはそうして尽きない殺意を鼻で笑ったのだった。それが完璧に俺を射抜いたと知ると、まるで大型の動物が小動物をもてあそぶように真っ直ぐ俺を見下ろしながら、ゆっくりと俺を覆う手と脚を離して、白んだ空の薄い光が差し込むいつもの書斎へと戻っていった。
でもボス、あんたは1つ間違ってる。俺を撃ち抜いたのはやっぱり鉛の銃弾でも、空気の塊でもなかった。闇に血の色の瞳だけが浮かび上がった時、自然と神経をそこに集中させてしまう中で、見えてきた怒り、悲しみ、狂気、それらすべてを覆い尽くし焼き尽くす破滅の残虐性に、いや、確かに殺されたんだ。あんたの血の色に。
「なースクアーロー」
「あ゛ぁ?」
ああ、朝日が最高に気持ちよくて寝そう、と思いながら宙に向かって話しかけると、馬鹿がつくほどでかい声が南から返ってきた。
カタカタカタッと忙しなくキーを叩く光景は10年くらい経っても全然変わらず、っていうかほんとに馬鹿だねおまえも、何他の奴らの分までやってあげちゃってんの?変わったことと言えば腰まで伸びた長すぎる髪くらい。銀のフレームの眼鏡もこっちに向けられたその奥の鋭すぎる目も、昔と大して変わらない。コロコロ変わるのは髪型で、今日は花でも散らしたくなる三つ編みサイドテールの装い。昔は天に向かって元気よく伸びてたのに、20も半ばに差し掛かるとすっかり勢いをなくして重力に従っている。ラプンツェルかっつーの。何乙女みてえないい匂いさせてんだよ!
「髪まだ伸ばすの」
タン。あー、気持ちよさそうなEnter。でも必要ないとこで押しちゃったね。単純さも健在、っと。
「たりめーだ、誓いだからな」
あんまり触れられたくないのか、こっちを見ないで話を続けるスクアーロが面白くて今度はこっちが顔を向ける。
「切ってやろーか」
ラプンツェルの最後の姿を思い浮かべてにんまりしながら尋ねると、これ以上ないくらい渋い顔で睨まれた。説教モードだ。
「…ガキ、お前はクソボスさんに甘やかされてるから分かんねぇだろうがな、これは男と男の…」
「分かるし。それ10年前にも聞いたから」
「あ゛ー?」
さらににんまり口の端を釣り上げて笑う。
「身の震え上がるような畏怖と、畏敬、だろ」
「何だそりゃ」
切れ長の目を丸めて素っ頓狂な顔をする働きすぎの脳みそ真綿鮫に、俺は上流階級の優雅な仕草で頬杖をついて教えてやる。
「俺とボスは血と血で契約してるからさ」
(2018/02/03)
あとがき(2023/02/07)
スクとボスが何かしら契約してるんならベルちゃんもベルちゃんでボスと契約してるんじゃねと思って書いたような…印象を…受けました(ただの感想)全体的に厨二臭い印象を受けますがキャラの解釈は今とそんなに変わらないです。スクアーロは真っ直ぐすぎて恥ずかしいことを言うんだけどベルちゃんにはそれが眩しく見えるんだろうなとか。拙いですが当時はがんばって書いた記憶があります。